かねてより造船の街として有名であった広島県呉市。1937年、株式会社ディスコはその呉市阿賀町で砥石メーカー「第一製砥所」として創業しました。
当時の呉市は、戦艦大和の建造で知られる呉海軍工廠があり、日本一と言われたハイテクのメッカで製砥業も栄えていました。しかし、優秀な先発同業者が多かったために後発組の当社は品質的にも官需の仕事がとれず、やむなく民需を求めて本社を東京に移しました。
その後の戦後の復興期、電力計メーカーから思いがけない商談が持ち込まれました。それは電気の使用量を計測するための積算電力計の内部にあるC型の磁石の先端を研削、研磨する必要があり、このC字型磁石研削用の砥石を作れないかというものでした。技術陣を総動員して砥石の薄型化に取り組み、当時としては驚異的な厚さ1.2ミリの高精度薄型砥石の開発に成功しました。これを契機に、ものを「精密に」切断するというテーマに関心を向け始めたのです。
この本社移転と薄型砥石への転換がなければ、現在のディスコの姿はなかったかもしれません。
砥石の薄型化をさらに進め、1968年に厚さ40ミクロンの超極薄砥石「ミクロンカット」の開発に成功しました。この砥石は日刊工業新聞社の1968年十大新製品賞を受賞しました。
しかし、ここに大きな壁が立ちはだかります。それは、「加工中に砥石が割れる」というクレームに対し「装置側に問題がある」と説明しても、「砥石が悪い」と言われてしまうこと。なぜならどんな高精度の砥石ができても、それを使いこなせる切断装置がまだ世の中になかったからです。装置メーカーに試作機を作ってもらってもディスコの砥石の性能を活かすことはできなかったため、意を決して自ら装置開発に挑戦することを決めました。現在も受け継がれる「アプリケーション技術(利用技術)」を重視するディスコの姿勢も、この装置開発への第一歩を後押ししました。
また1969年には、後にシリコンバレーと呼ばれるようになる土地に日本の半導体関連企業として初めて進出し、海外展開も積極的に進めていきました。
そして1974年、アポロ11号が持ちかえった「月の石」の分析のための切断依頼が東京大学よりディスコに届きました。これは、ディスコの「精密に切る」技術が、より広い分野で求められてきていることを象徴するできごとでした。
ミクロンカットの開発から7年目、関家臣二(当時常務取締役)を中心とする開発チームが、現在のダイシングソーの原型である「DAD-2H」の開発に成功しました。この時期が、折しもシリコンバレーで半導体製造装置の展示会「SEMICON WEST」が開催されるタイミングと重なったため、ここが「DAD-2H」のデビューの場となりました。当時の製造装置は切断動作中に砥石が壊れて停止してしまうことが多かったため、「会期中は絶対にDAD-2Hを止めない」という強い信念を持ってこの場に臨みました。その結果、装置は途切れることなくデモ運転を続け、競合他社の装置と違う「止まらない装置」ということで、大きな反響を呼びました。
事業内容が砥石メーカーから砥石を用いた精密加工装置メーカーへと変化し、企業の体質も変化してきたことから、第一製砥所は1977年に英文社名の頭文字(Dai-Ichi Seitosho CO., Ltd.)をとったDISCO(ディスコ)に社名を変更しました。
1992年、平均年齢25歳、総勢15名、1年後のセミコンジャパンまでに主力機種をモデルチェンジさせ、セミコン会場で動作させることを目指す開発プロジェクトが発足しました。 その頃、某デバイスメーカーの九州にある工場の課長から、「各工程の装置をU字形状に並べて、オペレーターが全工程を一人で操作できるラインの導入を検討している。ついては、もっと小型で安い装置を作って欲しい。そうすれば200台は買う」という話が舞い込んだため、当初の計画にはなかったマニュアルダイシングソーも含めてモデルチェンジすることを目指し、このプロジェクトは発足しました。15名のメンバーは昼夜を問わずとにかく働きました。そしてプロジェクト発足から1年後のセミコンジャパンの会場に、無事フルモデルチェンジを遂げたフルオートダイサ「DFD620」と「DFD640」、セミオートグラインダ「DAG110」、そしてセミオートダイサ「DAD320」を10台、並べて出展することができました。その後、先述のデバイスメーカーへの1号機の納入、評価にこぎつけましたが、当の課長はマレーシアに転勤してしまっていたため、結局北九州工場の受注は得られず、マレーシア工場への10数台納入にとどまりました。しかし、装置の小型化が受け、国内外から多数の受注を得ることができ、当初の思惑とは異なってしまいましたが、ヒット製品となったのです。
「DISCO VALUES」は、ディスコがどのような考え方に基づき、どの方向を目指して企業活動を行っていくのかという、企業としての価値観を明らかにしたものです。
企業の規模が小さいほどコミュニケーションは緊密で、社員同士がお互いをよく知っています。また一人の社員が携わる職務の範囲も広く、会社がどのような状態にあるのかを一人ひとりが把握しています。そして、「どのような仕事が自社らしいのか」「どのような行動が支持されるのか」といった、企業において大切にされている価値観も共有されています。しかし、社員の数が増えるにつれ、同じ会社に勤めているのに顔も名前も知らない人が増えていきます。個人の携わる職務の範囲が狭くなれば、個人の立場からは会社全体が見えにくくなり、自分が関係する仕事以外には無関心になっていきます。そうなれば、「価値観」が自然に共有されることなど、とても期待できません。これはいわゆる大企業病の一つであり、この時期のディスコには、まさにその大企業病の兆しが見え始めていました。こういった状況を受けディスコは、規模が小さかったころには共有されていた価値観を、新しい時代にふさわしいものに整えて深耕する「フューチャープロジェクトα」を1995年に発足しました。その場でディスコの存在意義を徹底的に議論し、2年の歳月を経た1997年12月に「DISCO VALUES」を社員へ公開しました。
「DISCO VALUES」はただ掲げているだけでは意味がありません。社会や経営の環境の変化に即して見直しをつづけながら、今もなお、社員への浸透活動がさまざまな形で展開されています。
6インチウェーハ対応オートマチックダイシングソー「DAD3220/3230/3430」、8インチウェーハ対応パラレルデュアルダイシングソー「DFD6450」を開発
2004年11月、ディスコはおよそ20年間慣れ親しんだ東京都大田区東糀谷の土地を離れ、大田区大森北のアサヒビール工場跡地に本社R&Dセンターを新築移転しました。
1984年、品川から東糀谷に本社を新築移転した際には、そこで働く従業員は200名程度でした。移転後、ディスコの成長とともに従業員数は増加し、20年後の2004年には本社勤務の従業員は1000名に迫る数にまでなりました。老朽化した建屋の建て直しや新たな棟の建築など、人員の増加に合わせた施策を繰り返した結果、2004年の本社機能は、東糀谷に計6棟、数km離れた東品川に研修センターと、合計7箇所に分散している状態になっていました。試作現場やアプリケーションラボとデスクのある事務所フロアが異なる建物にある場合もあり、雨の日などには、片手に傘、もう一方の手に工具箱を持ち、エンジニアが2つの建屋を早足で行き来する光景などもよく見られました。
2004年に移転した大森本社では、事務所・現場・アプリケーションラボ・サービス部門など、ディスコの中核機能全てが同一の建屋に入り、より高いソリューションの提供が効率よくおこなえるようになりました。
2015年2月、当社最大の製造拠点である桑畑工場(広島県呉市)に、新棟を竣工しました。新棟と表現しているものの、正式名称は「桑畑工場A棟Bゾーン」であり、既存のA棟と同等の規模の建屋を増築したことになります。この竣工とほぼ同時期に、工場周辺の道路の整備も進み、これまでは立ち入ることのできなかった場所から桑畑工場を望めるようになりました。呉市街地から距離のある山深い土地に忽然と姿を現す8階建ての工場の迫力は、なかなかのものです。
また、竣工翌月の3月には山陽自動車道と当社呉工場の近傍である阿賀地区を結ぶ「東広島呉自動車道」が全線開通し、桑畑工場のすぐそばにもインターチェンジが設けられました。同自動車道が開通したことで、広島空港から桑畑工場、呉工場の移動の大半に信号の無い自動車専用道路を利用できるようになりました。従業員はもちろんのこと、国内外からのお客様も頻繁に訪れる工場へのアクセスが格段に改善されたことは、当社にとっての待ちに待った朗報となりました。
新たな加工手法によるレーザスライス技術「KABRA®プロセス」を開発
KABRA®プロセスがCEATEC AWARD 2017で「審査委員特別賞」を受賞